親鸞聖人、関東でのご苦労(1)-なぜ、親鸞聖人は、田植えをされたのか

親鸞聖人(しんらんしょうにん)が無実の罪で、京都から越後(現在の新潟県)へ流刑に遭われたのは35歳の時でした。それから5年後、自由の身となった聖人は京都へ帰られず、関東へ向かわれたのです。「幸せは、どこにあるのか」と、嘆き苦しんでいる人々に、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」と誓われた阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)を伝えられるためでした。

新天地での布教は、まさにゼロからのスタートでした。ところが、常陸の稲田(現在の茨城県笠間市稲田)を拠点に活動された約20年間で、1万人以上もの念仏者が現れたといわれています。親鸞聖人にはどのようなご苦労があったのでしょうか。

アニメ映画『歎異抄(たんにしょう)をひらく』シリーズには、親鸞聖人が田植えをされたエピソードが描かれています。

農民と一緒に泥田へ入り、

と、聖人が作詞された歌を、みんなと歌いながら苗を植えていかれたのです。

アニメ映画になるほど有名な「田植え歌」のご旧跡は、今も残っているのでしょうか。

9月17日、東京都の上野駅から特急ひたちで、茨城県の水戸駅へ向かいました。1時間あまりで到着しました。

駅前からレンタカーで国道を20分ほど走ります。常磐自動車道の高架橋の下を通り過ぎると、広々とした田園地帯に出ました。水戸市飯富町です。

すでに半分ほどは稲刈りが終わっていました。車を止めて周囲を眺めていると、田んぼの真ん中に、小さな島のように土が盛り上がっている所を見つけました。

中央の石碑には「親鸞聖人旧跡」と刻まれています。

「親鸞聖人御田植御旧跡」と書かれた大看板も設置されています。

「親鸞聖人御田植御旧跡」を示す石碑

この辺りの田んぼで親鸞聖人がご苦労をされたのかと思うと、感慨深いものが胸に込み上げてきました。

では、なぜ親鸞聖人は、田植えをされたのでしょうか。

800年間もご旧跡を守り、聖人のご苦労を伝えてきたのが、平太郎(へいたろう)が開いた真佛寺(しんぶつじ)です。田んぼの近くの高台にあります。取材を申し込んで、寺を訪ねると、北條正倫(まさのり)住職が温かく迎えてくださいました。

平太郎が、親鸞聖人をお招きして、ご法話会場としたご旧跡に建つ真佛寺(茨城県水戸市飯富町)

寺宝として伝わっている親鸞聖人御真筆の「田植え歌」を見せていただきました。800年もたっているので全体が黒くなっていますが、聖人のお気持ちが伝わってくるようです。

住職から『真仏寺略縁起』や『大部の平太郎ものがたり』など、多くの資料を頂きましたので、当時の経緯を詳しく知ることができました。

分かりやすくまとめると、次のようになります。

(『月刊 人生の目的』令和6年11月号より一部抜粋)

続きは本誌をごらんください。


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